問い続ける力

1月28日(金)、南直哉(みなみ・じきさい)師の
講義「仏教・私流」に初めて参加してきました。

会場は赤坂の豊川稲荷東京別院でした。
豊川稲荷といえば、商売繁盛のご利益で有名ですよね。
赤い提灯がずらりと並んでいるのを見て、すっかり神社と
思いこんでいたのですが、実は曹洞宗の寺院なんだそうです。

講義は18時半開始とのことで余裕をもって10分ほど前に行ったら、
すでに会場は満席なうえ、南師の話が始まってるではありませんか!
(講義開始は18:30からで、その前の話は「余談」だったようです。)

「仏教・私流」は仏教を南師ならではの視点で語りおろす
シリーズだそうですが、前回までで中国仏教が終わったとのこと。
中国の前はインド仏教だったそうです。

いよいよ日本仏教に入ろうかというところで、その中間地点として、
なぜこの講義をやっているかの「そもそも論」とでも言える、
お話をされました。

どんなお話だったかについてですが、あの話はライブで聞いてこそ
価値あるものと思えるので、やめておきます。

感想としては、私にとってはすこぶる面白く、痛快でした。
「どうしても手が届かなかった背中の真ん中をかいてもらった
ような爽快感」でした(下品極まりない比喩ですみません)。

私は「やさしい「禅」入門」の坐禅指導と対談で南師を初めて知り、
ただ者ならぬ何かを感じて、エッセイ集「語る禅僧」を読みました。
それ以来、南師の洞察の深さと論理性、切れ味の鋭さが
病みつきになりつつあります。

南師が幼少期から持ち続けている、また仏教を志すことに
なった、そもそもの問いは、

・「死ぬ」とはどういうことか?
・「存在する」とはどういうことか?
・「自分」とは何か?

の3つだそうです。
とりわけ、根源的なのは「死」についての問いとのこと。

これらの問いは南師だけでなく、生きている以上、
すべての人にとって避けて通れない問いですが、
それだけに、しつこくしぶとく問い続けるには
精神的心理的体力を要します。

そこまでいってない私は、筋トレとして、まずは著作を
読み進めてみようと思っています。

【芋づる式Book List】

それで、今読んでいるのが、こちら。
日常生活のなかの禅 (講談社選書メチエ)
南 直哉
4062582112

P.S. 間違えて「南直哉禅師」とツイートしてしまったのですが、
禅師というのは称号であり、曹洞宗では大本山の永平寺、總持寺の
貫首のみ称せられるものだそうです。無知ゆえの失礼、お詫びして
訂正いたします。

主人公として生きる

「主人公」という言葉の語源って知ってますか?

小説や演劇、映画などの中心人物という意味で
使われている「主人公」、英語で言えばHero、Heroineです。

実は「主人公」という言葉は元々、禅語なんだそうです。
私も「禅、シンプル生活のすすめ」を読んで、初めて
知りました。

瑞巌(ずいがん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、復(ま)た自ら応諾(おうだく)す。及ち云く「惺惺着(せいせいじゃく)や、喏(だく)。他時異日、人の瞞(まん)を受くること莫れ、喏喏(だくだく)」(『無門関』第十二則)

 瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、また自分で「ハイ」と返事をしていました。「はっきりと目を醒ましているか」「ハイ」「これから先も人に騙されなさんなや」「ハイ、ハイ」といって、毎日ひとり言をいっておられたというのです。
臨黄ネットより引用)

五感を通じて受け取る情報も含め、私たちの身の周りには、
情報や刺激にあふれています。一般社会で生きていて、
自分以外の存在や外界からの影響をまったく受けずに
生きるのは困難です。私たちの頭には外界から受け取った
刺激によって引き起こされた様々な思考や感情が
常に行き来しています。

膨大な量のインプットを受け取り続けていたら、
いつしか、本当の自分、本来の「私」というものを
忘れてしまっても無理もないというもの。

瑞巌和尚のように、時々、自分自身の名前を呼ぶ行為は、
自分という存在がほんとうに今ここにいるのか、
その確認のようにも思えます。

よく、コーチングやヒーリングの世界でも、
「自分の人生の『主人公』として生きる」といった
言い方をすることがあります。

それは、自らが自らとして生きること。

このことが意味にする世界の入り口に、今ようやく
たどりついたように思います。

【芋づる式Book List】

禅、シンプル生活のすすめ (知的生きかた文庫)
枡野 俊明
4837977979