2011年3月11日から6週間。
また、金曜日がめぐってきました。
昨日、南直哉師の「仏教・私流」の講義に参加し、
震災後モヤモヤしていた多くのことの整理が
少しついてきました。
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私のモヤモヤを触発するきっかけのひとつが、
「いま、○○にできること」。
以前から存在していたフレーズですが、特に震災以降、
インターネット上でも、町の看板やポスターでも、
頻繁に見かけるようになりました。
○○に入る言葉は様々で、私が見つけたところ、
以下のようなバージョンがあります。
「私たちにできること」
「ぼくらにできること」
「自分にできること」
「(企業名)にできること」
「○○のためにできること」
私にはこの言葉がどうにも居心地が悪くてなりません。
特に、「いま、○○(居酒屋の名前)にできること。
和食を食べよう!」
なんていうポスターを見た日には首をひねらずには
いれません。
今回の東日本大震災をはじめとした大きな災害に際して、
実際に被害にあった方々や地域への支援や義捐金、寄付が
必要なのは、改めて言うまでもないことです。
また、各人や企業が自分に許される範囲での支援を
行うことにもまったく異存はありません。
私も少しばかりですが、支援活動を行っている個人やNPOに
寄付を送りました。
支援することそのものへの違和感というよりも、
「できること」というこのフレーズに「分離」を
私は感じてしまうのです。
南直哉師の言葉を借りれば「断絶」になるでしょう。
私が思うに「○○にできること」という表現は、
以下のような前提に立ったものではないでしょうか。
『被害の状況をメディアを通じて知ることはできる。
被災者の痛みを想像することも少しはできる。
ひょっとしたら共感もできるかもしれない。
でも、成り代わることはできない。
なぜなら、被災者と私はそもそも別個の人間であるから。』
更に、異なる視点から表現すると、この文脈での
「できること」は免罪符のように感じるのです。
『私は被災者=当事者ではない。
彼らの経験を共有することはできない。
そのことに罪悪感を感じている。
自己嫌悪とも無力感とも言い替えられるかもしれない。
この罪悪感や自己嫌悪による居心地の悪さや不安感を
なんとかして紛らわしたい。
そのために、できることをしよう。
ただし、自分が痛まない範囲で。』
***
分離と罪悪感に彩られているとしたら、
「できること」を積み重ねて、
何が本当に「できる」のか?
「できること」だけで十分なのか?
「できること」の総和で新しい未来は創れるのか?
こんな問いが次から次へ湧き上がってきてしまうのです。
***
こんなふうに感じるのは私だけかもしれません。
「できること」の是非を問うというよりも、
私自身がいま感じている居心地の悪さや違和感に、
気づきを保っておくために、問いを立てる意味で、
この記事を書くことにしました。
もちろん、被災者を救いたい一心で、何の邪心もなく、
今この瞬間も現場で働いている方がいらっしゃると思います。
その方々に対しては頭が下がるばかりで、批判するつもりは
一切ないことを改めて繰り返しておきます。
ご意見などありましたら、ぜひコメント欄から
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“「いま、○○にできること。」にできないこと” に1件のコメントがあります