ある人と話していた時のこと。
その人が、ぽろっと、
「いいことするのって、なんか後ろめたいんですよ。
「たとえば、駅前で赤い羽根の募金とかしようとすると、
周りの目が 『なんだ、こいつ、いい人ぶって』
って言ってるように 感じますよ。
普通の人は、だいたい、そうだと思います。」
と言いました。
ええええええ~~~!
「いいことするのは後ろめたい」とは。。。
自分が人前で「いいこと」をするのは、
気がとがめる、ってことですよね。
私にはまったく思いもよらない視点だったので、
ものすごぉーく新鮮に、びっくりしました。
これが、真実かどうかはともかく、
人々が持っている、一つの視点ではあるんですね。
私が持っていない、この視点に気が付かせてもらって、
自分の今までの経験が、ある部分、
「なるほど、そういうことだったのか」と、腑に落ちました。
たとえば、お年寄りに席を譲るとか、
電車内で気分が悪くなった人のケアをするとか、
今まで、たくさんの場面に出会ってきて、
「なぜ、大多数の人は無視するんだろう?」と
常々、不思議に思ってた謎が、
ようやく少し理解できました。
「いいことをする」という行動に対しては、
様々なリアクションが起こると思います。
(どんなことが「いいこと」なのかの定義は、
ここでは、一旦、脇に置くことにします。)
無視する。
受け流す。
見て見ぬふり、寝たふりをする。
できない(しない)言い訳をする。
関わり合いを避ける。
批判する。
非難する。
嫌がらせする。
攻撃する。などなど
これらのリアクションすべてが、
「後ろめたい」から、だとすると、
何だか分かる気がするんです。
まぁ、いずれにせよ、
そもそもの「いいこと」はしてないんですけどね。
「いいことをするのは後ろめたい」というのは、
その人が何か行動を起こすための判断基準を、
「他人の目」にしているか、
それとも、「自分の心」にしているか、
そういうことだと思うんです。
それが、社会にとって善とされることであると、
「後ろめたさ」のハードルはより高くなるのかもしれません。
「後ろめたさ」を持たずに行動したいと思うのなら、
なにか行動を起こすときに、
「他人の目」に自分を従わせているか、
「自分の心」に従っているか、に
気付きを持ち、それぞれにどんな気持ちがするのか、
ひとつひとつ、自分で確かめていくといいと思います。
そして、私自身は、
「いいことするのを一瞬たりともためらわない」
そんな人間でありたいと思います。
今の私はこれが完全に出来ているわけではありません。
つい、自動的な、無意識な反応をしてしまうことがあります。
だからこそ、目指したいと願っています。