ノートの上のわたし

Notebooks

ここ十数年ほど、スケジュール帳とは別に小ぶりのノートを持ち歩いています。内容は、ふと思いついたこと、ミーティングやセミナーの記録メモ、本の抜き書き、新月の願い事なんかも混ざっています。

最初に持ち始めたのはスウェーデンに短期留学していた頃。日記を毎日つけるほどマメな性格ではないものの、異文化生活の中で感じたことや考えたことを書き留めておくためにノートを探しに行ったことを覚えています。

ノートはその時々に気に入ったものを使ってきた、つもりだったのですが、並べてみたらなんと15冊中9冊がフランスの文具メーカー、クレール・フォンテーヌ製でした。ペンの滑りが良く裏写りの少ない程よい厚みのある紙質が大好きで、浮気してもまた戻ってきてしまうのです。

この数年ほどノートの冊数が少なめです。スマートフォンを使い始めて以来、手軽さを優先してFacebookやEvernoteなどデジタル・メディアに日々の雑感を書いていたからです。

今、このことを後悔しています。過去の人生の記録がスクリーンの向こう側にあり、手元に無いことの頼りなさを感じ始めたのです。

そこで気づいたのはこのノート達がわたしの人生の”証人”だということ。夢や目標、嬉しかったことや悲しかったことを書き付けていたその時どきのわたしがこのノートの上に生きているのです。

デジタルの利便性を理解しつつもその心もとなさに気づいてから、読まれることを目的にしない言葉を、再びノートに綴り始めました。今の、そしてこれからのわたしのために。

過去との対話

本棚
(写真:フリー写真素材)

ここ一ヶ月ほど自宅の片付けに精を出しています。これまでの人生を振り返り、過去と対話する時間を過ごしています。

要不要を選別し、自治体のルールに従って捨てられるものは捨て、リサイクル業者に売れるものは売る。たったこれだけの作業のはずが、意外にも時間と手間がかかり、未だ道半ばです。

完全に忘れ去っていた物もあれば、手放し難い物もあり。特に思い出のつまった物について、それを手元に置くことが今とこれからの自分にとって必要なのか決断するのに時間がかかっています。

自分でも興味深いことに、片付けのプロセスが進むにつれ要不要の判断力が育っていくようで、先週捨てられなかったものが今週は手放せたりするのです。不思議なくらいにすんなりと。

人生は有限であることをわきまえれば、手放せない物なんて本来何一つないはず。人生に何が必要かつ重要なのか見極める力=識別について、物理的作業である片付けから気づきを得ています。